本日の読書 佐藤正午『5』

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 なんというか…とっても「人間が描けている」小説だと思った。かなりの数の人間が登場するもの、それぞれがそれぞれに厭らしいほどに書き分けができていて「あーこういう人、いるいるいる!」そう思いながら読んでいた。人間を詳細に描写する文章力は、相変わらず素晴らしい。
だけど…。そう思ってしまうのよね。

この作品のキモは作家の恋愛哲学でもある「スープも人の感情もいずれ冷めてしまう」「必ず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」ってところ。それを懸命に(超能力にまで頼って)否定しようとするのが、作家がいう
「町内会の回覧板と小説の区別もつかない連中」の代表である中志郎(個人的には「愛していた記憶がないと妻を愛せない」時点でダメダメ。離婚して、また新たな人生を互いに歩き出したのが、互いのためだと思ったんですけどねえ/汗)案の定、「愛の記憶と、今愛することの実感とは違う!」と言い放った彼の末路は…(汗)。そのヘンに著者の大いなる皮肉を感じた。

 この作品の主人公である直木賞作家で皮肉屋の作家は、自らの恋愛哲学を実践するかのように、既婚未婚関係なく出会い系で女を探し関係を持つ、絶えず女が切れない女にだらしない人物として描かれる。作家と著者の姿が、重なって見えてしまうのは、私だけ?(汗)
 結局作家は、自業自得。小馬鹿にしていた連中によって足元をすくわれ、作家として抹殺されかかってしまうのだが、重要な小道具として登場した超能力が、作家にはどう作用したのか。再び作家として浮上する再生のきっかけとなるのか。結局、その「記憶」にまつわる超能力がどう作家の再生に繋がるのか、仄めかされたまま終わってしまったことに不満を感じる。
 何よりも不満なのは、何よりも性欲が優先され、妻を女性を、性欲のはけ口としか見ていない男性陣の描かれ方だ。「愛すなわち性欲」ではない。男性至上主義と感じてしまうのは、私が女性だからなのかしら?男性が読んだらどう感じるのか、聞いてみたいと思ったり。
 私個人的には、作家のいうように「スープも人の感情もいずれ冷めてしまう」と思う。だけど、感情は一種類だけじゃないし。冷めてしまった感情があったとしても別の新たな感情が生まれ、育まれていくんだと思う。ま、そう思ってるのは妻だけで、夫の方がどう考えているのか、判りませんけどねえ(苦笑)。