井上荒野『切羽へ』

切羽へ

切羽へ

 簡単にいえば“島に来た行きずりの異人たる男との恋愛(しかも不倫)話”でしょうか。なんとなく『マディソン郡の橋』を思い浮かべたけど、あそこまでプラトニックでピュアじゃない。想いが錯綜して複雑だし、静謐な筆致で徐々に高まっていく不穏さが描かれる。出会いのシーンから物語の最後まで張りつめた空気が漂い、島ののんびりした日常との対比が見事だ。
 ヒロインである麻生セイは島で生まれ育ち、東京で生活したのち、島に戻ってきて結婚した。現在島の小さな小学校の保健室で養護教諭として働いている。夫の職業は画家で3つ年上、同じ島の出身だ。そんな穏やかな島での暮らしが、臨時採用されて島にやってきた一人の男石和の登場で穏やかならざるものへと変容する。心かき乱される…というお話。
 慈しみあい大切に思う夫との日常がありながらも野性味があり謎めいた異人たる石和のことを、つい見つめてしまう惹かれてしまうセイ。どうするの?夫がありながら、よろめいちゃうの?
 とまあ、張りつめた不穏な空気もまた心地よく、下司びた興味からドキドキハラハラしながら読んでしまった。これ、セイの同僚で妻子ある男性と不倫している奔放な月江の存在が、セイの心をさらに掻き乱すのに一役買ってると思う。
 のどかな、でも人間関係が密な島での穏やかな日常と、その中で描かれる石和への秘めたつのる思い。さりげない描写で感情の揺れを描くのが、とても上手い。肝心の石和はセイのことをどう思っているのか具体的には描かれていないから、示す行動のあれこれ、発する言葉のあれこれから推測するしかなくて。で!で!!
[たぶんそれがきっかけになって引き金が引かれるんだろうなあというずばりのタイミングでそうなったけど、ど!!行間で何があったんだよーーーーーーーーー!(絶叫)で、なぜ3月がないんだよーーーーーーーーーー!(絶叫)画家のダンナは、知っていたのかしら???]
 この物語を、石和視線で読んだら、月江視線で読んだらどうなるんだろうかと、たまらなく思った。
 昼メロのようなありがちな設定の物語だとは思うけど、不倫小説に感じる厭らしさをさほど感じさせず、ちゃんと井上荒野の恋愛小説になっていて、不穏で凄味のあるところが好き。月江に言わせて、さりげなく「結婚」について考えさせる内容にもなっているし、女性が女性であるがゆえの強さしたたかさもそこかしこから感じられるし(個人的な意見を言わせてもらえば、このヒロインは嫌いー(笑)。欲しいものをちゃんと欲しいといえる月江のが好きだわ)。
*追記
 その後あれこれと書評を読んで、いくらでも深読みができる作品だということに改めて気づいて愕然としたのだった。「切羽」とは“炭鉱の坑道の先端、石炭を掘り出す場所のこと。「先に進めないほどの究極の恋愛」”の意味なのだとか。「切羽までどんどん歩いていくとたい」と語ったセイの母親も、夫にいえない秘めた思いを胸に抱えたまま、日々を送っていたんじゃないかと思えてくる。母親とセイの姿が二重映しになる。ラストシーンも、何やら意味深だ。「何も起こらない」のだそうだけど、、、読む人によっていくらでも解釈ができそうだ。
 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080702bk05.htm
 http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20080622ddm015070026000c.html
 直木賞はどう、なんでしょうかねえ?いよいよ選考会は明日です。