本日の読書 保坂和志『カンバセイション・ピース』

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

熱狂的に「好き好き好き♪」とは言えないけれど、決してこの作品が醸し出す空気は嫌いではない、ってところでしょうか。
 主人公がかなり理屈っぽくて、日々の暮らしの中で絶えず泡のように抽象的な思考ゲームして遊んでいて、だだ漏れする思考がかな〜り鬱陶しいんですが、ただ時には少年のように可愛らしいところもあって、くすくす笑っちゃった(p.247の大洋の負け試合の帰り道、「げ!またぐるぐる考え込んでるよ!」と思ったら/笑。彼にとって思考することは無意識なんだと思ったら、鬱陶しさが少しは和らいだ/笑)

 とにかく、古くからある日本家屋で浮世離れした、ある種のスローライフである共同生活を送る日々が素敵。取りたてて事件も何も起らないんですが、そこには人がいて猫がいて家がある。郷愁さえ思い起こされて、すごく居心地の良さを感じる。
 季節の移り変わりや家を取り巻く木々や自然の描写が詳細で、あたかも主人公の視点で実際に見ているかのよう。猫の描写にしたって(とってんとってん)いかに主人公が深い愛情を持ってそれらを眺めているのかが、伝わってきます。
 物語の中心には時間が層をなしているかのような「家」があって、この「家」の中では過去と現在、生と死さえもがゆるゆると溶け出して境目が曖昧になってるんですね。現在にいながら、過去の昔の幼少の自分を絶えず見ている主人公が印象的。
 これ、この「家」が日本家屋だから特別なのではなくて、この「家」で過ごした時間の蓄積、記憶があるからなんでしょうね。あと20年もしたら、主人公のように私も我が家に、こんな感慨を抱くのかなあと思った。

 と同時に「チャーちゃんの不在」がある。小難しい思考の断片も、一筋の流れになって、結局はそこに収斂するかのよう。「死んでからが人生だ」とか「死は豊かすぎる」とか「死ぬことは消えることじゃない」とか私には意味不明だけど、判らないから否定するんじゃなくて、なぜ高志はそう考えるに至ったのか、他の保坂作品も読んでぜひ考えてみたい。確かこの「家」では暮らしていないはず。

 正直、高志や理恵のもの言いには閉口させられたけど、こういうきつく感じられる口調で、その人の人となりを表現してるのかと。選民意識というよりは“年代や立場や性格が異なるゆえの「感覚のズレ」もしくは「壁」”と考えた方がしっくりくるかと。
 私のまわりには理恵タイプがいないので、めっちゃ新鮮!けど、怖くて近づきたくないけど(苦笑)。なにげに高志は綾子に対して好意を持っているように感じたんだけど、そのヘン、どうなのかしら〜。えへへ。
 とにかく「そこに住んだ人たちの記憶が高校に染み込んでいたり漂ったり澱んでいる」この「家」を作り出してくれたことに、大満足&大感謝。残念ながら空間把握能力が欠けてる女なので(涙)、どなたかにこの家の間取り図を書いていただきたいっす!

 何もない日々の代わりに保坂哲学が濃厚な作品で、正直逆上せちゃった感があるけれど、もう少し保坂作品を読んでみたいな、と読み終えて思った。この作品も、何回か読むうちに、また感想も変わってきそう。次は…10年後ぐらい?(笑)