ドナ・ジョー・ナポリ『わたしの美しい娘』

わたしの美しい娘―ラプンツェル

わたしの美しい娘―ラプンツェル

 誰もが知っている童話「ラプンツェル」が16世紀半ばのスイスと解釈と舞台も新たに、母と娘ツェル、ツェルとコンラッドの愛の物語として甦る。石の卵を抱き続けるカモが重要なモチーフとして登場、物語を暗示しているかのようだった。
 「なぜ魔女はレタスと引き換えに女の子の欲しがったの?」「ラプンツェルってもしかして大馬鹿?よく大人しく塔に幽閉されていたわねえ」などなど、「ラプンツェル」という童話を読んだ時に感じた違和感が作者の大胆かつ緻密な解釈によって、こうとしか思えないぐらいしっくりくる母と娘の物語へ生まれ変わっていて唸らされる。
 自分の娘を持ちたいという願いが叶わず、悪魔と契約し力を得、結果として娘ツェルを手に入れる母。母の愛を一身に受けて育ち、天衣無縫な少女に育つツェル。母と娘だけのまるで石の卵のような閉じた非生産的な、だけど愛に満ちた完全な生活はツェル13歳の誕生日を迎えることによって軋みを生じる。伯爵の息子で尊大なコンラッドとツェルの出会い。知らず知らずのうちに危機感を覚えた最愛の母のエゴによって、ツェルはそれまでの温かく愛に満ちた生活から遮断された塔の中へと、幽閉されてしまうのだった、、、。
 愛と執着とは紙一重なのか。愛しているから。愛ゆえに、ツェルの意志や自由を束縛し塔の中に幽閉する。なぜそこまでツェルに執着し溺愛してしまうのか、母の気持ちが分るだけに切なく哀しかった。葛藤を抱えながら。母を愛し愛されるだけの子供から成長したツェルと母とが対峙するシーンがとても印象に残る。 
 私なんかも子どもの母親だから、「早く私の手がかからないように成長して〜」という気持ちと、「いつまでもずっと手元に置いておいて、可愛がれる子供のままでいて欲しい」という気持ちとに日々揺れ動いているから、この母とツェルの物語は非常に共感できる物語だった。子どもは親の所有物ではないし、大人にならない成長しない子どもはいないし、大人もまたかつては子どもだったんだけど、、、。
 ラスト、そうなると分かっていても胸の奥からこみあげてくるものが(感涙)。(母から娘へ、娘は母になってまたその娘へ。そうして命は繋がっていくのだと、孵らないはずの卵はそうして孵って命を伝えたのだと、ものすごく感動した)。
 つい感情移入しながら読んでしまう登場人物らの繊細かつ詳細な心理描写も素晴らしいんだけど、とにかく素晴らしいのが母とツェルのオルムでの山の暮らしぶり、自然の描写、そして食の描写だ。自給自足で質素な食卓なんでしょうが、私にはとてもじゃないけどそうには思えませーん。コンラッドはツェルを思いながら毎日(爆)食べたレタスのシンプルサラダでさえも美味しそうで、何度お腹が鳴りそうになったことか(笑)。